『ポスト・サブカル焼け跡派』
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『ポスト・サブカル焼け跡派』

¥2,640 税込

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「ナンバーワン」だったジャパン・カルチャーが「焼け跡」と化すまでの文化的精神史。 1970年代(矢沢永吉/沢田研二/坂本龍一)、80年代(ビートたけし/戸川純/江戸アケミ)、90年代(フリッパーズ・ギター/電気グルーヴ/X JAPAN)、ゼロ年代(椎名林檎/KREVA/バンプ・オブ・チキン)、そして現在(星野源/秋元康/大森靖子)に至る道中、私たちはどこで間違えてしまったのか? 【目次】 プロローグ コメカ(TVOD) 第1章 カウンターからサブカルチャーへ(1973-1978) 矢沢永吉 アメリカ化された「天然」の天才 沢田研二 ポップな記号に成りきること 坂本龍一 消費されるイデオロギー 第2章 消費社会空間の完成、ジャパン・アズ・ナンバーワン(1979-1988) ビートたけし 消費社会で勝ち抜くこと 戸川純 女たちのサブカルチャー 江戸アケミ バブル・ニッポンにおける「もがき」 第3章 リアルと無意識(1989-1998) フリッパーズ・ギター 「本当は何か本当があるはず」 電気グルーヴ 諧謔・暴力・快楽 X JAPAN 90年代最強の記号 第4章 ネオリベ、セカイ系、右傾化(1999-2010) 椎名林檎 自意識と生存戦略 KREVA コミュニタリアンとネオリベラリズムの狭間で バンプ・オブ・チキン セカイ系J-ROCK 第5章 「孤児」たちの時代へ(2011-2019) 星野源 「煩悶青年」への回答 秋元康 ポスト戦後のゲームマスター 大森靖子 たったひとりのあなたに届けるということ エピローグ 焼け跡から見た風景--あとがきにかえて パンス(TVOD) 年表・サブカルチャーと社会の50年 【recommend】 サブカル批評の焼け跡に立ち上がるルネサンス! でありながら、彼らの饒舌な対話が言論ゲームに陥っていないのは、そこで、我々の暮らす社会は何故こんなことになってしまったのか、そしてどうするべきなのかという精密な検証と誠実な議論が行われているからだろう。 ---磯部涼 戦後サブカルチャー(あるいはポップカルチャー)のアイコンを、メディアを通じてプレゼンテーションされ消費される「キャラクター」として捉え、その系譜を編み直す。それはひとつの無謀な通史の試みであると同時に、生身の人間がつくりだす「キャラクター」を消費することの倫理と可能性を思考する土台でもある。サブカル的「オトコノコ」による、「オトコノコ」性の総括の記録。 ---imdkm スターやサブカルの歴史を記すならふさわしい当事者や研究者はほかにもいるだろう。でもこれは違う。いまここにいる〈私〉と〈社会〉の関係を考えるための一冊だ。語らいを続けよう。その在り処さえ危うい時代に。 ---九龍ジョー 84年生まれ(私の20個下)という微妙に絶妙な世代ならではの射程の長いニッポン・サブカル・サーガ。 固有名詞縛りの各論として読んでも面白く、強い問題意識に支えられた半世紀にわたる通史としても読みごたえがある。 端的に言ってこれは、今は亡きわが国のサブカル(チャー)へのレクイエムだ。 だからこそ、いよいよ本気で新しい何かを生まれさせなければならないのだ、と著者たちは言っているように思える。 ---佐々木敦 TVODは「歴史」にこだわる。それはサブカルの愛好と批評に半ば宿命的ともいえる弱点を補完する。80年代リアルタイマーなのに当時のあれこれを忘れてしまった年長者の私は、申し訳なさと感謝に震えた。 ---高岡洋詞 日本のサブカルチャーは、音楽は、お笑いは、ポリティカルな事象を扱わないからダメだ、カウンターカルチャーたり得ていない、などと言う人は多い。だけど、なぜそうなったかをここまで丁寧に追うことができたのは、TVODのふたりが初めてなんじゃないか。 1970年代から2010年代まで、それぞれの時代を象徴するキーパーソンを徹底的に分析することで、たとえばポップスターが自らを記号化したことが世の中にどんな影響を与えたかだったり、前時代の価値観へのカウンターとして機能していた存在がやがて前提が失われて変質していく過程だったりが見えてくる。 そして最終的に、自分自身も戦後サブカルチャーの典型的な子供のひとりにすぎないんだっていうことに気づかされる。 ---ハシノイチロウ(LL教室) モヤモヤと感じていたことに的確な言葉が与えられていく快感。こんなラジオ番組を作りたい!と悔しくなるくらい。僕より10歳若いおふたりですが、後ろからしか見えないこともある、と痛感しました。 ---長谷川裕(TBSラジオ:「文化系トークラジオLife」「菊地成孔の粋な夜電波」「荻上チキ・Session-22」など) 1984年生まれのふたりが焼け跡になってしまった日本で 未来への武器を探しながら紡いだ「サブカル」の精神史。 ---姫乃たま 渋谷PARCOから本屋が消え、ヴィレッジヴァンガードが郊外のショッピングモールに溢れた(それすら飽和して久しいが)時代の「サブカル」とはなんなのか。遅れてきた(けど、ギリギリ間に合ってしまった)サブカル青年たちによる、ミュージシャン・バンドのキャラクター性から時代を読み取る試みは、「後追い」ならではのスリリングな切れ味をみせる。 既存のサブカル音楽評論では、手薄になりがちだった矢沢永吉やX JAPANら「ヤンキー」への目配せも「キャラクター」にフォーカスしているからこそ。「失われ続けた」と呼ばれ続け、もはやそれが日常になってしまったこの30年。経済の豊かさに担保されていた、かつてのサブカルのようにはいられない。現実は厳しいし、サブカルはもはや貧しい。「焼け跡派」というのは、きっとそういった現状と向き合うことなのだ。 ---藤谷千明 TVODとは会って話した瞬間に意気投合しました。この社会に対峙しつつ、この社会を乗り越えるものとしての音楽ーーその可能性を精一杯に信じる姿勢には、同じアーリー80’s生まれとして圧倒的に共感! ---矢野利裕 80年代以降の日本の「サブカル」に至る流れというものを考えた場合、「世界と自分の間には社会が存在しているという当たり前のことに目を向けることなく、自意識のゆりかごを育てていく行為でしかなかったのかもしれない」という考えが浮かぶ人も少なくないだろう。社会と訣別するのでもなく、社会と闘うのでもなく、無意識に自然とないものとして目をそらすことができたのは、かっての日本が金があったからに過ぎない。日本の「サブカル」にみられる反権威、反体制的なものの多くは、身体的な生存の意志に乗っ取ったものではなく、親の庇護下にある子供がいたずらをして満足するような、「他人とは一味違う自分」という自意識を満足させるためのものでしかなかったのかもしれない。社会に守られているのが前提の遊びだったのかもしれない。終わらない日常などないということを人々が気付きだしたのは、あの大地震以降だろう。いや、既に崩壊は始まっていたのだが、それは緩やかすぎて多くの人は気づいていなかった。それがあの日以降、速度が急速にあがることで、対峙せざるを得なくなったはずだ。また、社会の存在を意識する中で男性は今まで無意識に続けてきた「男の子たちの遊び」が孕んできた問題に気付かされることにもなった。ジェンダー問題と無縁でいられる時代は終わっている。  遊びの時間は終わったのだろうか?その答えはYesであり、同時にNoでもある。守られたエリアでの他人との差異化のゲームを続けることはできない。そのゲームが終わってることに気付かないまま続けている人もいれば、ゲームを続けるために庇護下にいれそうな領域や、ネットのポピュリズムの世界に逃げ込んでいく人もいる。しかし、あのゲームは終わったのだ。  TVODのふたりが提唱しようとしていることを自分なりに解釈すると、社会の流れと対峙しながら共同体的な安全領域に逃げ込むことなくあくまで個人単位で新しい「遊び」を始めようということ、それを続け続けようことなのではないかと思う。かっての「サブカル」の歴史が産んだものは負の遺産ばかりかというと、そうではないだろう。彼らがこの本でやっていることは検証であり断罪ではない。これから先に続けていくための確認作業である。置いていくべきものもあれば、持っていくべきものもある。  かっての無自覚な差異化のゲームの中で焦土と化した日本のサブカルの跡地で、若くもないドン・キホーテ二人組が再生をかけた闘いを挑んでいる。それは過去の再現を目指すものではない。その先にいくための闘いであり、新しい何かを求める闘いだ。それは無謀であるかもしれないが、そんなことを考えても仕方がない。彼らは最初の一歩を踏み出したのだし、それが一番重要なのだから。 ---ロマン優光 (敬称略;五十音順)